産科医療における無過失補償制度について(5/5)

2 論点
(1)補償の目的
ア 補償と原因究明
上記のような構造を有する産科医療補償制度にはいかなる論点が存在するかを検討する。
本制度は、(1)分娩により重度の脳性麻痺となった児及びその家族に対して速やかに補償するとともに、(2)脳性麻痺の原因分析を行い、再発防止策を講ずることにより、(3)紛争の防止・早期解決および(4)産科医療の質の向上を図ることを目的としている。
しかし、(1)迅速な補償と(2)原因究明という2つの目的は、ときとして相反する理念となりうるとの懸念が表明されている。すなわち、原因究明は責任追及をするためのものではなく、かつ、無過失でも患者・家族に補償されるとなれば、民事責任との切断が一応生じるので、医療者が原因究明に協力的になるとも考えられる。しかし、原因分析委員会の調査権限が限定されている点や報告書が公表される点などを考慮すれば、訴訟における証拠されることを恐れて医療者が十分な診療録等を提出しないということも想定しうる。そのため、補償制度と原因究明活動は切り離すべきであるとの立論も可能である。
他方、産科医療の疫学的資料としての価値や家族への十分な説明という側面から、補償制度と原因究明活動を両輪とする利点もある。
現行制度は民事訴権を奪うものではなく出訴可能であるから、不法行為法制度における矯正的正義の側面に原因究明機能を補完させるという選択が妥当であると考える。しかし、その場合、(3)紛争防止や早期解決という目的は、一定の譲歩を迫られることになる。
また、訴訟という場は、真理の追究自体を目的とするものではない点にも留意が必要である。そのため、(4)産科医療の質の向上という観点から、原因分析委員会の報告書はなお意義を有するものと考える。

イ 訴訟リスクの軽減
(3)紛争防止に関連して、現行制度では直接の目的とされていないが、(5)医療者の訴訟リスクを軽減することを目的とすることも考えられる。その場合、総合救済システム構想のように、補償対象については不法行為訴権を廃止し、または、諸外国の立法例のように、訴権や求償額につき一定の制約を加えることも考慮されることになるだろう。
ただし、仮にこのような目的を採用するのであれば、救済概念が質的に変化し、分配的正義に純化した制度になりうる点に注意を要する。また、財団法人日本医療機能評価機構から原因者への求償関係の問題も検討しなければならない。
しかし、補償の存在が被保険者のリスク回避行動を阻害するモラルハザード問題が認識されていることを鑑みれば、実際に導入するのは政治的に困難であると考えられる。

(2)補償の対象
ア 先天的要因の除外
補償の対象は、前述のように、通常の妊娠・分娩にもかかわらず児が重い脳性麻痺となった場合に限定されており、先天性の要因等による脳性麻痺については、補償の対象外となっている。先天的要因を除くのは、無過失責任であることと財源の制約とを考え合わせた結果であるとされる。
しかし、このような対象の絞り込みについては、先天的な要因等により補償が受けられない脳性麻痺児と補償の対象となる脳性麻痺児との間に大きな経済的格差が生じるため、問題であるとされる。さらに、先天性かそうでないかの判別は医療者であっても難しいところがあるとの指摘もあり、鑑定結果次第で補償に大きな差がひらくのはやはり妥当ではないといえよう。

イ 未熟児の除外
また、妊娠週数33週を下回って出生した児を除く理由は、未熟児においては脳性麻痺となる確率が、通常児に比して高く、結果の発生に医療者の行為が介在しないことが多いというものであると説明されている。「出生体重が2000グラム以上かつ妊娠33週以上」という基準を設ける以上、「なぜ1950グラムの児は対象とならないのか」という趣旨の批判は、基準を設ける限り、どこまでも付きまとうだろう。
そのため、現行制度では、緩和策として基準を下回る場合であっても、妊娠28週以上で所定の要件に該当した場合は補償の対象とする例外を認めている。

ウ 脳性麻痺以外の領域
本稿の冒頭において、新生児脳性麻痺に関しては、統計上、訴訟率が非常に高いという特徴があると述べた。しかし、(鄯)迅速な補償、(鄱)原因分析による再発防止、(鄴)紛争の防止・早期解決、(鄽)産科医療の質の向上などの目的は、他の分野にも該当するものである。
本制度の立案過程において、財源上の限界により緊急度の高い課題から優先して取り組むことが明らかにされているから、今後、無過失補償制度の対象は拡大をするかもしれない。しかし、すべての人身傷害を対象とすることは、財源との関係で困難であると考えられる。そうなると緊急度とは何かということが問われ、また、制度理念の洗い直しが必要になることが予想される。

(3)補償の範囲
ア 支給額
産科医療補償制度は、補償対象者には、一時金600万円と分割金総額2400万円(20年にわたり毎年120万円)、計3000万円が支払われる。
金額の多寡については様々な見方がある。児の親などからは諸外国と比べて少なすぎるとの声が上がる。しかし、あまりに高額にしてしまうと、上述のような補償対象外の児との不公平感が増し、医師が補償認定をためらうのではないかとの懸念もありえる。
また、産科医療補償だけが社会福祉ではない。20歳未満の1級重度障害児への特別児童福祉手当は年額約60万円、障害児童福祉手当は年額約17万円である。成人すれば障害年金が支払われる。脳性麻痺は、成長により症状が変化することもあるため、医師が診断に慎重になる面もあるから、支払額の不足を問題にするのであれば、他の社会福祉を充実させることも検討すべきであろう。

イ 運用
産科医療補償制度は、補償対象者数を年間500〜800人と見積もって運用を開始したが、10ヶ月間で支給件数は34件にとどまっていることが報道された。そのため、今後、支給件数が大幅に増えない限り、数十億円規模の剰余金が発生する可能性がある。しかし、余剰金が出ても返還する予定はないとされているので、保険会社が実支給額の差額を得ることになりそうである。そのため、従来より、余剰金が発生する場合は、脳性麻痺児のトータルケアに使うなどが検討されるべきとの指摘があった。
開始時には不確定要因が多かったのではないかと推察するが、今後見直しと検討が必要であることは言うまでもない。このような問題は、民間の保険会社をいかに活用するかにつながるため、補償対象者数の見直しや補償額の引上げにとどまらず、制度設計全体を再検討することが望ましい。

ウ 資金拠出者
産科医療補償責任保険は、公的救済制度の建前をとりつつ、出産育児一時金を掛け金とみなして制度設計が行われているから、社会保障制度に近似していることは、すでに指摘したとおりである。
社会保障制度と公的救済制度は異なる理念に立脚しており、その制度的限界も差異が生じる。社会保障制度では、民事責任との関係は断ち切られ、資金の拠出者は、侵害者または潜在的侵害者とは無関係に定められるのに対し、公的救済制度は、資金の拠出者を損害発生の原因者及び損害を発生させる潜在的な可能性がある者に限定している。侵害者との関係を全く断ち切るものではないため、補償の対象は、一定の活動に関連して損害が発生したことを要件として画されることになる。
社会保障制度に近似させるのであれば、潜在的侵害者とは無関係に定められるのであるから、現在の補償対象に限定する理由、さらには、産科医療に限定する理由を現在より詳細に説明しなければならないだろう。
このような制度設計のねじれは、制度目的や理念との乖離を生じさせるので避けなければならない。今後補償範囲拡大の議論をする際に、迷走の要因となりかねず、将来に禍根を残すことになると考えられる。

まとめ

産科医療補償制度は、理念や目的そのものは妥当であるものの、補償対象、支給額、剰余金の処理、民間保険会社との関係などについて今後見直しをすべき論点が散見される。ただし、無過失補償制度の運用開始という不確定要素に鑑みれば仕方のない面もあり、また、今後の検討により修正可能なのではないかと思われる。
しかし、資金拠出者について、形式と実態が異なる点は看過できない。救済をどのように位置づけるかという制度理念に関わるためである。